ARABESQUEの生い立ち | ARABESQUE |
1970年代後半の世界的なディスコ・ブームに伴い、日本で絶大な人気を誇ったアラベスクです。
アラベスクは、本国西ドイツより、日本で絶大な人気を誇りました。人気絶頂期には、なんと、洋楽アーチストの年間総合売上NO.1を記録したくらいです。
アラベスク解散後、リード・ボーカルだったサンドラは、マイケル・クレトゥのプロデュースの元、ソロとして西ドイツを初めとするヨーロッパ諸国やロシアにおいて大ブレイクを果たしました。また、エニグマ(=マイケル・クレトゥ/サンドラの夫)の曲のいくつかには、バック・コーラスとして参加しています。こうして、メンバーのサンドラは、それぞれの年代において、アジア、ヨーロッパやロシア、アメリカ・・・と制覇していったと思うと、もう感無量です。
アラベスクの全楽曲90曲の内、「ハロー・ミスター・モンキー」「バギー・ボーイ」「スクォー」の3曲以外のすべてにおいて Jean Frankfurter が係っています。Jean Frankfurter は作・編曲を、John Moering は作詞を担当していました。Jean Frankfurter は、これだけの良質の楽曲の作曲や編曲を、ほとんど一人でやっていたことを考えると、アラベスク成功の大きな功労者と言わざるを得ません。
それでは、しばらくの間、70年代にタイムスリップして、彼女たちが残した軌跡(奇蹟)をたどりましょう。
アラベスクは、西ドイツ第二の音楽出版社の副社長で、プロデューサーでもある西ドイツの音楽界の大物、ヴォルフガング・メーヴェスが当時世界的に人気が高かったアバやボニーMの向こうをはったグループを作ろうと思い、先ず「ハロー・ミスター・モンキー」と言う曲を作り、その曲に合うアーチストを自らの手で作り出し、女の子3人を集め、アラベスクという名前をつけたのが始まりです。 | 1978年1月、ヴォルフガング・メーヴェスは、このテープを持って「ミデム」(MIDEM/THE INTERNATIONAL MUSIC MARKET)に売りこみに行きました。「ミデム」とは、毎年1月にフランスのカンヌで開かれる音楽業界の集まりで、世界各国のレコード会社が、自社のアーチスト、作品、デモ・テープなどを持ち込んで、そこに集まる各国のレコード会社や音楽出版社に売り込む見本市です。 | 彼は、ここで日本の各社に売り込み、ビクター音楽産業に見出され契約を結びました。当時、ビクターは積極的にアメリカ以外のヨーロッパからのディスコ作品を買い付けていたので、このアラベスクも、そうした一アーチスト、一作品として買い付けられました。この曲には、いくつか他の日本のレコード会社へも売り込みがありましたが、一番熱心だったビクターがその権利を獲得しました。しかし、その時には誰も、後にアラベスクがこんなにもビッグなアーチストになるなど、夢にも思っていなかでしょう。(たぶん、本人たちも) | こうして4月に日本で発売された「ハロー・ミスター・モンキー」は、レコード業界関係者の予想を裏切り、先ずディスコで大ヒットとなりました。その波は、有線放送、ラジオにまで広がり、シングルは最終的に40万枚のセールスを記録する大ヒットになりました。また、この当時は、まだアルバムがなかったために、シングルのB面の「バギー・ボーイ」までがディスコや有線で人気を集めたほどでした。 | 「ハロー・ミスター・モンキー」がこれほどまでに売れた背景としては、もちろん、当時は、世界的なディスコ・ブームであったことが挙げられますが、日本でもちょっとした猿ブーム?だったことも影響しているのかもしれません。堺正章、(故)夏目雅子主演によるテレビ・ドラマ『西遊記』が人気となり、主題歌の「モンキー・マジック」や「ガンダーラ」がチャートを賑わせたり、ドリフターズの人形劇主題歌だったピンク・レディーの「スーパー・モンキー孫悟空」がB面でありながらもヒットしました。 しかし!何よりも、日本人にも受け入れやすかった、♪ハロー・ハロー・ミスター・モンキー♪のフレーズやキャッチーなメロディによるところが大きいのではないかと思います。 |
1977年の秋のデビュー時点でのメンバーは、メリー・アン、ミシェーラ・ローズ、カレン・アンの3人でした。ファースト・アルバム完成前には、メリー・アンが抜けてハイク・ランボーが加入しました。また、5thシングルの「ペパーミント・ジャック」からは、またメンバーが変わり、カレン・アンとハイク・ランボーが脱退し、サンドラ・ラウアーとジャスミン・フェッターが加入しました。以後、1985年の解散まで、このメンバーで活動することになります。(日本でのライナーにはまったく触れられていませんが、ハイクとサンドラの間には、エルケというメンバーも存在しました。彼女は約半年間だけアラベスクに在籍していたようです。) | 「ハロー・ミスター・モンキー」の大ヒットを受けて、日本では、1985年の解散まで次々とシングルをリリースしましたが、本国西ドイツなど、他の国々では、それほど多くのシングルやアルバムは発売されませんでした。シングル・カットされた楽曲も、日本でのものとはかなり異なっています。海外では、バラード調の「哀愁のマリゴット」「インディオ・ボーイ」を初め、「傷つけないで」「シティ・キャッツ」などがシングルとしてリリースされています。特に、西ドイツにおいてアラベスクの最初のヒットとなったのが、バラード調の「哀愁のマリゴット」というのは意外です。 | 1979年の11月には、テレビ番組「11PM」の10周年記念番組の特別ゲストとして初来日しました。その後、1981年、1982年の二度に渡って、コンサートを日本各地で行いました。 | 1984年発表の9枚目のアルバム、『恋はナイト・アンド・デイ』を最後にグループは解散しました。ラスト・シングルは、同アルバムからタイトル曲の「恋はナイト・アンド・デイ」ですが、原題は「Time to say -good bye-」(「さよならを言う時」の意)なので、アルバム制作時から、解散をある程度予測していたのではないかと思います。 | 1985年の解散後は、サンドラはマイケル・クレトゥのプロデュースの元、ソロ活動をスタートさせ、西ドイツにて大ブレイクし、アラベスク時代よりも大変な人気となりました。特に、マイケルの作曲したセカンド・シングル「マリア・マグダレーナ」は、西ドイツのチャートで1位を獲得、またイギリスでもスマッシュ・ヒットを記録するほどでした。 | サンドラが抜けた後のミシェーラとジャスミンの二人は、「ルージュ」という二人組ユニットとして、西ドイツを拠点に活動を始めました。1987年頃まで、「Hold On」「Love Line Operator」など、何枚かのシングルをリリースしましたが、それほど大きな話題にはならなかったようです。 | 1988年には日本でもデビューを果たし、西ドイツとは違う、独自の企画でシングルやアルバムをリリースしました。また、東京音楽祭にも来日し、ステージでは日本でのデビュー曲「恋はNO TIME」を披露してくれました。同曲はヒットしませんでしたが、当時のユーロビート・ブームに乗ってか、人気の高かったディスコもあったということです。また、アルバム『ルージュ』もFUN HOUSEからリリースされました。このアルバムでは全曲を三木たかしが作曲しています。三木たかしと言えば、典型的な演歌〜歌謡曲系作曲家で、彼がルージュを手がけたのは大変な驚きでもありました。結局、ルージュは本国で売れなかったので、日本でもう一花咲かせよう・・・とでも、考えていたのかもしれません。 |
1976 | サンドラが西ドイツにてデビュー。「Andy mein Freund」というシングルをリリース。(アラベスク加入以前のソロ・シングルはこの曲だけ) | 1977 | アラベスクが西ドイツにおいて結成される。結成当時のメンバーは、ミシェーラ、カレン、メリーの3人。 | 1977 | 「ハロー・ミスター・モンキー」が西ドイツにて日本より一足先にリリース。 | 1978 | プロデューサー、ウォルフガング・メーヴェスが「ハロー・ミスター・モンキー」をミデム(音楽の見本市)に売りこむ。日本ではビクターが買い付ける。 | 「ハロー・ミスター・モンキー」が日本でもリリース。オリコン洋楽チャートで最高1位獲得、年間洋楽チャートでも4位というビッグ・ヒットを記録。 | メリーが脱退し、ハイクが加入。(1stアルバムのリリース前) | フランクフルトのオッフェンバッハにあるヨーロッパ・サウンド・スタジオにてファースト・アルバムの収録が行われる。 *ヨーロッパ・サウンド・スタジオは当時、人気のボニーMも使用していたスタジオです。 |
1stアルバム『アラベスク・ファースト』が日本先行発売。オリコン洋楽チャート最高9位。 | 1stアルバムの発表後、カレンが脱退し、ジャスミンが加入。(ジャスミンがサンドラより一歩先に加入) | 1979 | ハイクが脱退し、エルケが加入。 | エルケが脱退し、サンドラが加入。 | 2ndアルバム『ペパーミント・ジャック』リリース。オリコン洋楽チャート最高3位。 | テレビ番組「11PM」の10周年記念番組の特別ゲストとして初来日。 | 1980 | ヨーロッパ・サウンド・スタジオにて、3rdアルバム『ハイ・ライフ』のレコーディング。 | アルバム『ハイ・ライフ』リリース。オリコン洋楽チャート最高1位。 | ヨーロッパ・サウンド・スタジオにて、4thアルバム『さわやかメイク・ラブ』のレコーディング。 | アルバム『さわやかメイク・ラブ』リリース。オリコン洋楽チャート最高4位。 | 1981 | 西ドイツでリリースした6thシングル「哀愁のマリゴット」が最高8位をマーク。アラベスク、初めて(そして最後の)の西ドイツでのヒット。 | 韓国にて、'81ソウル国際歌謡祭にスペシャル・ゲストとして招待。同時に一般会場でのコンサートも行う。 | 日本で、10thシングル「恋にメリーゴーランド」リリース。テレビでの露出もありオリコン洋楽チャートで久々の1位獲得。 | アルバム『グレイテスト・ヒット』リリース。オリコン洋楽チャート1位。洋邦あわせた総合チャートでも2位という好成績となる。 | アラベスク、初めてのジャパン・ツアー。東京、大阪など主要都市において6公演をおこなう。 | 5thアルバム『ビリーズ・バーベキュー』リリース。オリコン洋楽チャート1位、総合チャートでも2位という好成績。 | VHDやビデオの『グレイテイスト・ヒッツ』の映像を収録するために来日。滞在はわずか3日間くらいだったとのこと。 | ヨーロッパ・サウンド・スタジオにて、6thアルバム『キャバレーロに夢中』のレコーディング。 後のサンドラの夫のマイケル・クレトゥもキーボードで参加! | シングルやアルバムの売り上げが好調で、この年、日本で最も売れた洋楽アーチストとなる。 | 1982 | アルバム『キャバレーロに夢中』リリース。 | 二回目のジャパン・ツアー。全国主要都市において全17公演をおこなう。 マイケル・クレトゥもこの時、キーボーダーとしてコンサートのスタッフとして参加。 | 上記のコンサートの模様を収めたアルバム『ファンシー・コンサート』をリリース。 | 7thアルバム『愛のリプライ』リリース。 | 1983 | ドイツ国営放送「ZDF」の番組のレポーター役として、5度目の来日。同時にテレビでのプロモーションも行う。 | 西ドイツにてアラベスク活動期としては最後のシングル「サンライズ・イン・ユア・アイズ」をリリース。 | 8thアルバム『恋のルーザー』のレコーディングがヨーロッパ・サウンド・スタジオの他、ロスバッハにあるFAR TONスタジオで行われる。 | アルバム『恋のルーザー』リリース。 | 1984 | サンドラがドイツ・バージンと契約して初めてのシングル「JAPAN IST WEIT」(アルファビルの「BIG IN JAPAN」のカバー)をマイケル・クレトゥのプロデュースで西ドイツにてリリースする(日本未発売)。しかし、まったく売れなかった。 | ラスト・アルバム『恋はナイト・アンド・デイ』リリース。 | 1985 | アラベスク最後のシングル「恋はナイト・アンド・デイ」が日本でリリース。 | アラベスク解散(しかし、この時点で既に目立った活動はしていなかったようで、実質的な解散は1984年ではないかと思われる。しかし、サンドラのシングル「JAPAN IST WEIT」が1984年4月ということなので、アラベスクの活動と平行してソロ活動を始めたのか、それともアラベスクは実際には1984年の初めには解散していたのかなど依然として疑問が残る) |
以下、SANDRAとしての活動
1985 | 「マリア・マグダレーナ」をリリース。夏には、本国西ドイツを初めヨーロッパ各国でビッグ・ヒットとなる。この曲はイギリスでもヒット。サンドラ〜アラベスクとしても、英語圏での初ヒット。 | 1stアルバム『THE LONG PLAY』をリリース。 | 1986 | 第16回東京音楽祭参加のために来日。「ヒート・オブ・ザ・ナイト」を歌い銀賞を受賞。 | 2ndアルバム『MIRRORS』をリリース。 | 1987 | ベスト・アルバム『TEN ON ONE』をリリース。 | 1988 | アラベスク時代から長期にわたりサポートを受けていたマイケル・クレトゥと結婚。同時にスペインのイビザへ引っ越す。 | アメリカやイギリス向けにPWLがリミックスしたシングル「EVERLASTING LOVE」をリリース。 | 日本にてトヨタのニュー・ターセルの'88イメージ・ソングとして「SISTER AND BROTHERS」(ファースト・アルバム収録曲)が使用され、CDシングルとしてリリースされる。この曲がシングルとなったのは日本だけ! | 3rdアルバム『INTO A SECRET LAND』をリリース。 | 英米向けにベスト・アルバム『EVERLASTING LOVE』をリリース。 西ドイツにてその年の「THE BEST NATIONAL ARTIST(最優秀国内アーチスト)」に選ばれる。 |
1989 | ARTISTS UNITED FOR THE NATUREのメンバーの一人として、自然環境のためのチャリティー・シングル「YES WE CAN」(クイーンのブライアン・メイやチャカ・カーンらが参加)が西ドイツでリリース。最高15位を記録。 | 1990 | 「HIROSHIMA」でイタリアのサン・レモ音楽祭に参加。(結果は不明) | 4thアルバム『PAINTINGS IN YELLOW』をリリース。 | エニグマがアルバム『サッドネス(永遠の謎)』をリリースし、ヨーロッパやアメリカなど世界的に大ヒット。(エニグマがマイケル・クレトゥということやサンドラもコーラスで参加していたことは後に判明。) | 1992 | 5thアルバム『CLOSE TO SEVEN』をリリース。 | ベスト・アルバム『18 GREATEST HITS』をリリース。これを最後に、サンドラのアルバムやシングルは日本でリリースされなくなる。 | 1993 | エニグマの2ndアルバム『2〜ザ・クロス・オブ・チェンジ』にコーラスで参加。「リターン・トゥ・イノセンス」は世界的に大ヒット。この曲の間奏の英語のセリフもサンドラが担当。 | 1995 | 6thアルバム『FADING SHADE』をリリース。(日本盤未発売) 7 双子の赤ちゃんが授かる。名前は二キータとセバスチャン(2人とも男の子)。以降、子育てに専念するためサンドラとしての音楽活動をしばらく休止する。 | 1996 | エニグマの3rdアルバムアルバム『エニグマV』にコーラスで参加。 | 1999 | ベスト・リミックス・アルバム『MY FAVORITES(2枚組み)』をリリース。(日本盤未発売) | 2000 | エニグマの4thアルバム『ザ・スクリーン・ビハインド・ザ・ミラー』にコーラスで参加。 | 2001 | サンドラがオリジナルとしては、6年ぶりのニュー・マキシ・シングル「FOREVER」をヨーロッパでリリース(日本盤未発売)。ドイツのチャート「MEDIA CONTROL」では、最高47位を記録。 | 2002 | 8年ぶりのオリジナル・アルバム『THE WHEEL OF TIME』をヨーロッパでリリース。ドイツのチャート「MEDIA CONTROL」では、最高8位というビッグ・ヒットを記録。(日本盤未発売) |
アラベスク解散後、ミシェーラとジャスミンが西ドイツにてROUGEとして活動を始める。ラジオ・ステーションにシングル「I WANNA TAKE YOUR BODY」が配布されるが、このシングルは公式にはリリースされず、何かの手違いだったとのこと。後に下記の「HOLD ON」が公式なシングルとなる。 | 西ドイツにて1stシングル「HOLD ON」をジュピター・レコードよりリリース。 | 2ndシングル「LEADER OF THE PACK」を西ドイツにてリリース。 | ユーロビジョン・ソング・コンテスト西ドイツ国内予選大会に参加。3rdシングル「EINER VON UNS」を歌うが成績は12アーチスト中6位。 | レコード会社をRCAに移籍して、4thシングル「LOVE LINE OPERATOR」を西ドイツにてリリース。 | 日本でのデビュー・シングル「恋はNO TIME」をFUN HOUSEよりリリース。 | 日本にて、デビュー・アルバム『ROUGE』をリリース。 | 第18回東京音楽祭参加のために来日し「恋はNO TIME」を歌い銅賞を受賞。 | 「恋はNO TIME」のリミックス・バージョンのCDシングルをリリース。たぶん、上記の東京音楽祭出場に併せてのリリースと思われる。 | その後、西ドイツや日本でも主だった活動はなく、解散したと思われる。 |