Sanrda Anne Lauer (サンドラ・アン・ラウアー) |
父・フランス人/母・ドイツ人 | 1962年5月18日 | フランクフルトに生まれる |
14才の頃からステージに立っていました。アラベスク加入前にはソロ歌手として「Andy mein Freund(私の友達、アンディ)の意」をリリースしました。 | ソプラノで、ほとんどの楽曲のリード・ボーカルと担当していました。 | ソロになって間もなく、マイケル・クレトゥのプロデュースで、シングル「JAPAN IST WEIT」をリリース。セカンド・シングルの「マリア・マグダレーナ」が西ドイツで大ヒット。また、イギリスでスマッシュ・ヒットしました。続く「ヒート・オブ・ザ・ナイト」もまたまた大ヒットで、あっという間に西ドイツでトップ・スターとなりました。この人気はヨーロッパ中に飛び火し、またロシアでもかなりの人気を得ました。サンドラは、アラベスク時代よりもはるかに上回る成功を収めました。日本では、アラベスク時代からの一部のファンに支持されましたが、一般の人にはあまり受け入れられなかったようです。1985年には東京音楽祭参加のため来日しました。後にマイケル・クレトゥと結婚しました。 | 1995年にアルバム『FADING SHADE』をリリースした後は、あまり目立ったソロ活動はしていませんでしたが、2001年には、久々のマキシ・シングル「FOREVER」をリリース。ドイツではスマッシュ・ヒットとなりました。2002年4月にはアルバム『THE WHEEL OF TIME』をリリースし、ドイツのアルバム・チャートで最高位初登場8位と大ヒットを記録しました! 現在は、スペインのイビザで二人の子ども(双子/ニキータとセバスチャン)に囲まれ家族でとゆったり暮らしているようです。 |
Michaela Rose (ミシェーラ・ローズ) |
父・アメリカ人/母・ドイツ人 | 1958年12月19日 | フランクフルト |
モデルとして芸能活動をしていました。1976年にはタレント・コンテストで1位の成績も収めています。 | アルトで主にバック・コーラスでしたが、リード・ボーカルを担当する事もありました。 | サンドラが抜けた後のミシェーラとジャスミンの二人は、「ROUGE(ルージュ)」という二人組ユニットとして、西ドイツを拠点に活動を始めました。1987年頃まで、「Hold On」「Love Line Operator」など、何枚かのシングルを西ドイツJUPITER RECORDS(あのジンギスカンが所属していたレコード会社)よりリリースしましたが、それほど大きな話題にはなりませんでした。 1988年には起死回生をはかってか?日本でもデビューを果たしました。そして、日本独自企画のシングル「恋はNO TIME」やアルバム『ROUGE』をFUN HOUSEよりリリースしました。「恋はNO TIME」はディスコでもそこそこプレイされたということです。また、同曲をひっさげて東京音楽祭にも参加しました。 | 現在の状況はわかりません。 ドイツで主婦として生活しているという未確認情報もあります。 |
Jasmin Elisabeth Vetter (ジャスミン・エリザベス・フェッター) |
父・母ともにドイツ人 | 1956年2月22日 | 西ドイツのザスバッハ |
元々、西ドイツ体操のナショナル・チームの一員でしたが、オリンピックを控えたある日、練習をしていて段違い平行棒から転落し、腰を打ち、競技生活を断念せざるを得なくなりました。その後は、ダンサーやダンス・クリエーターとして活動していました。 | ソプラノでバック・ボーカルを担当。また、体操選手という経歴を生かし、振りつけを担当していました。 | サンドラが抜けた後のミシェーラとジャスミンの二人は、「ROUGE(ルージュ)」という二人組ユニットとして、西ドイツを拠点に活動を始めました。1987年頃まで、「Hold On」「Love Line Operator」など、何枚かのシングルを西ドイツJUPITER RECORDS(あのジンギスカンが所属していたレコード会社)よりリリースしましたが、それほど大きな話題にはなりませんでした。 1988年には起死回生をはかってか?日本でもデビューを果たしました。そして、日本独自企画のシングル「恋はNO TIME」やアルバム『ROUGE』をFUN HOUSEよりリリースしました。「恋はNO TIME」はディスコでもそこそこプレイされたということです。また、同曲をひっさげて東京音楽祭にも参加しました | 現在の状況はわかりません。 エジプトで暮らしているという未確認情報もあります。 |
Karen Ann(カレン・アン) |
1953年9月11日 | ロンドン生まれのイギリス人 |
オッフェンバッハという年で開催されたソング・コンテストで優勝したところをウォルフガング・メーベスらに見出されてアラベスク加入となった。4thシングル「今夜もロック・ミー」までは在籍していました。ファースト・アルバムには、アラベスクの活動と平行して学校の先生をしていると書かれていましたが実際のところはわかりません。 | 現在、彼女はSHAKIRAというバンドの女性リード・ボーカルとしてドイツで活動しています。このSHAKIRAは、3人組バンドで、結婚式、誕生日、他いろいろなイベントなどに、ある時はソロ、またある時はデュオやトリオとしてそれぞれのフォーメイションで歌を歌ったり、音楽を演奏したりするようです。出産を予定していたことが脱退の理由だったと語っています。なお、現在はステファン、ダニエルという2人の息子のお母さんでもあります。 |
Mary Ann(メリー・アン) |
結成時のメンバーの一人。ドイツ人で、ソロ・ボーカリストの経験を持っているとのこと。ファースト・アルバムリリースの時点で脱退しました。メリーの脱退の理由は、(彼女が暮らしていた)カールスルーエ(ドイツの都市)から(活動の拠点と思われる)フランクフルトまで車での距離があったことや、彼女には小さな男の子がいたからということです。 |
Heike Rimbeau(ハイク・リンボウ) |
1959年4月17日生 | ドイツ人 |
ファースト・アルバムのリリースの時点で、メリー・アンに代わり加入したメンバー。4thシングル「今夜もロック・ミー」までは在籍していましたが、5thシングル「ペパーミント・ジャック」リリース前に脱退しました。とてもチャーミングな女性です。アラベスクとしては、テレビでもサンドラのように真ん中で歌っていました。 また、アラベスクに加入する前には、Anyone Expectというバンドで活躍していたとのことです。 |
Elke Bruckheimer(エルケ・ブルクヘイマー) |
何と!アラベスクにもう一人のメンバーがいた!!! 日本でリリースされたレコードなどのライナーには彼女についてまったく触れていません。彼女は西ドイツでいくつかのバンドのボーカリストとして活動しているところをアラベスクのプロデューサーのヴォルフガング・メーヴェスに見出され、'79年までの約半年間、在籍しました。しかし、「自分はカントリーを歌いたいんだ」と気づき脱退。その後、カントリー・アンド・ウエスタンのグループを結成。現在もカントリー&ウエスタンのグループのボーカリストとして活動しています。そのグループ「LOUISIANA(ルイジアナ)」のオフィシアル・サイト内のメンバーのプロフィールには、彼女がアラベスクとして活動した経緯などが記載されていてます。トップページから「英語(イギリス国旗)」を選び、「BAND」→「ELKE BIOGRAPHY」と進んでください。下記に記載してある文は翻訳ソフトを使用して訳して、一部手を加えたものです。 |
オールラウンド・シンガー エルケは経験豊かなカントリー&ウエスタンのアーチストです。 彼女は、7歳の時に初めてステージに立ちました。13歳の時に、タレント・コンテスト・ショウで優勝し、これが、彼女をレコーディング・スタジオへと導いたきっかけです。一年後、エルケはお姉さんから、あるバンドが女性ボーカリストを募集しているという内容の紙切れを見せられました。そのオーディションを受けたことがきっかけとなり、彼女のミュージシャンとしてのキャリアが始まりました。18歳までの間(1979年までの間)は、エルケはいろいろなポップ・ミュージックのフィールドで活躍しました。この時に、(アラベスクのプロューサーの)ヴォルフガング・メーヴェスに見いだされ、アラベスクというグループに加入しました。アラベスクのメンバーとして過ごした6ヶ月後、彼女は「本当にやりたいのはカントリーなのだ」ということに目覚めました。 そしてエルケは、「Four Feel Drive」というカントリー&ウエスタンのバンドを最初に作りました。彼らはプロとしてヨーロッパ中を演奏して歩きました。また、彼らのツアーはフィリップ・モリス(たばこ)やジャック・ダニエルズ(ウイスキー)などの大手の会社がスポンサーとなっていました。付け加えて、アメリカのいくつかの農業関係のエージェンシーは、ヨーロッパでの彼らとプロモーション契約を結んでいました。 後に、フランクフルトで「Big International Trade Fairs and Receptions」が開催されました。ドイツにおいての初めての女性カントリー・シンガーとして、そのカントリー・フェスティバルに、アメリカの有名なカントリー界のスターのEmmylou Harris、Bobby Bare、Jerry Lee Lewis、Waylon Jennings、The Bellamy Brothers、Dolly and Stella Parton、Rattlesnake Annieなど、他のたくさんのアーチストと共に招待されました。 1982年に彼女は、「ルイジアナ」というバンドを作りました。1986年にはイギリスに移住しましたが、その後、1991年にはドイツへ戻り、「American Armed Services」のために演奏する活動を始めました。 ルイジアナは、新しい才能と、より良いカントリー&ウエスタン・ミュージックを演奏してゆくという新しい目的のために、今も町のどこかで演奏を続けています。下のは翻訳ソフトにてページ翻訳した全文です。 万能の歌手。 Elkeは経験を積んだカントリー・アンド・ウェスタン芸術家です。 7歳の柔らかいときに、彼女は、まさに最初、愉快な聴衆の段階上にいました。内気なこと、彼女が知らなかったものでした。好きだった歌を見つけた場合は常に、彼女は彼女の中でそれを歌うでしょう、自分自身のもの(非常に)ユニークなスタイル。 13歳のときに、彼女は、彼女をまさに最初の録音室ヘ導いた様々な才能コンテストに勝ちました。 1年後に、Elkeの年上の姉妹は彼女を注意と呼びました、に、1つの、アドイン、バンドが女性の歌手を捜していたと述べる論文。短い通話およびバンドとの1つの聴取の後に、Elkeは彼女の音楽の経歴を始めました。18歳のときまで、Elkeは様々なバンドと上演しました、の中で、その"ポップ・ミュージック"1979年までフィールド。それは、彼女がヴォルフガンクMewesによっていつ発見されたかです。Elkeはアラベスク模様を備えた6か月後に、グループ・アラベスク模様を連結しました。彼女は彼女の心がカントリー・ミュージックに属したことを悟るために来ました。 Elkeは、呼ばれた彼女の最初のカントリーアンドウエスタン・バンドを作りました"4輪駆動「。それらは、ヨーロッパの至る所での様々な機関のために専門的に遊び、フィリップ・モーリス(マールボロ)およびジャック・ダニエルののような有名人会社によって支持されました。さらに、ヨーロッパでそれらの製品を促進することを支援するために、アメリカからのいくつかの農業の機関は4輪駆動で収縮しました。 大きな世界通商フェアおよび受理は主要な場面でした。ドイツで第1の女性のカントリーシンガーのうちの1つで、Elkeは、顕著なアメリカのカントリーがエミロー・ハリスとして星印を付けるようなものを持ったフランクフルトでカントリー・フェスティバルで上演することを依頼されました、ボビー、露出している、ジェリー・リー・ルイス、ウェイロン・ジェニングス、Bellamy兄弟、ドリーおよびステラ・パートン、ガラガラヘビ・アニーおよびさらに多く。 1982年には、彼女がバンドを作りました"ルイジアナ ". 1986に、彼女は英国へ移住しました。また、1991年には、彼女がドイツへ戻り、アメリカの軍部のために実行し始めました。 ルイジアナはまだまわりにあります、しかし新しい才能および町で最良のカントリー・アンド・ウェスタン音楽をかける新しいゴールとより大きくよりよい。 |
★アラベスクの解散、そしてソロ活動へ。 アラベスクの解散後は、アラベスク時代から親交のあった(後に夫となる)マイケル・クレトゥのプロデュースで、シングル「JAPAN IST WEIT(日本は遠い)の意)」をリリースしました。しかし、このシングルは試験的に制作されたもので、彼女のどんなアルバムやCDにも収録されていませんし、プロフィールにも公式なリリースものとしては扱われていません。あくまでも「試験的」ということらしいです。当時125枚しか売れなかったということで、サンドラ・ファンの間ではプレミアものとなっています。 このシングルは、西ドイツのエレクトロニック・ポップ・グループのアルファビルにより英語で歌われた、1984年のヒット曲「ビッグ・イン・ジャパン(BIG IN JAPAN)」をドイツ語でカバーしたものです。楽曲やアレンジはオリジナルにかなり忠実で、とても良い曲です。原曲の「ビッグ・イン・ジャパン」の歌詞の内容は、「日本でビッグになれば何だってできるさ」という、まさにアラベスク時代の彼女のことを歌っているかのようで、彼女のシングルにもピッタリだったかもしれません。しかし、あくまでも試験的にリリースしたということで、まったくヒットしませんでした。 なお、カップリングの「SEKUNDEN」はマイケル・クレトゥの書き下ろしです。「JAPAN IST WEIT」「SEKUNDEN」とも作詞は、Michael Kunzeという、ドイツ人アーチストの楽曲の作詞をする職業作家で、シルバー・コンベンションを初めたくさんのアーチストに詩を提供している売れっ子作家です。 |
★ヨーロッパでヒット。 既にボニーMのクルーや、その他のアーチストのプロデュースや作〜編曲などで経験を積んでいたマイケル・クレトゥは、「JAPAN IST WEIT」のリリースから約1年という十分な準備期間を経て、サンドラのためにしっかりとしたチームを組みました。それは、後にドイツ本国を始め世界的な成功を収めるドイツのエレクトリック・ポップ・トリオ、ヒューバート・カーのリーダーで作曲や歌を担当するヒューバート・ケムラーでした。 彼はサンドラの(実質的な)デビュー曲のタイトルを「マリア・マグダレーナ」にしようと言った人でもあります。また同時にサンドラの初期の曲において、かけあいの男性ボーカルや、バックコーラスも担当していました。他にもヒューバート・カーのメンバーであるマルクス・レール(G&Ky)、クラウス・ヒルシュブルガー(B)もソング・ライティングなどの面で強力にサポートしていました。 1985年5月には、実質的なファースト・シングルの「マリア・マグダレーナ」をリリースしました。これは、西ドイツはもちろんのこと、南アメリカからエジプトに至るまで、計21カ国でNo.1を獲得。また、5カ国以上でトップ10ヒットとなりました。この曲はイギリスでも大ヒットし、サンドラ〜アラベスクとしても、英語圏での初ヒットとなりました。続く「ヒート・オブ・ザ・ナイト」もまたまた大ヒットで、あっという間に西ドイツでトップ・スターとなりました。そしてその年の11月には『THE LONG PLAY』というファースト・アルバムもリリースし、ビッグ・ヒットを記録しています。このサンドラ人気はヨーロッパ中に飛び火したほか、(CDやアルバムのライナー・ノーツなどではまったく記載がありませんが、)ロシアでもかなりの人気を得ました。 |
★ヨーロッパでのスターへ。 サンドラは、ヨーロッパやロシアにおいては、当時人気のマドンナと同じくらいの人気を得、アラベスク時代よりもはるかに上回る成功を収めました。1988年1月には、アラベスク時代から長期にわたりサポートを受けていたマイケル・クレトゥと結婚すると同時にスペインのイビザへ引っ越しました。またこの年の8月、西ドイツにて「German Female Singer Of The Year (最優秀国内女性アーチスト)」にも選ばれました! この人気は、日本とはまったく逆の現象で、日本では、アラベスク時代からの一部のファンに支持されましたが、一般の人にはほとんど受け入れられなかったようです。 |
★チャリティ・シングルに参加 1989年11月には、ARTISTS UNITED FOR THE NATUREのメンバーの一人として、自然環境保護のためのチャリティー・シングル「YES WE CAN」(クイーンのブライアン・メイ、チャカ・カーン、マイケル・マクドナルド、ジェニファー・ラッシュらが参加)を西ドイツでリリース。最高15位を記録しました。 カップリングは同曲のインストなのですが、「NATURE SOUND」ということで、鳥の鳴き声などが聞かれ、アマゾンの奥地にいるような雰囲気にさせられるバージョンとなっています。 |
★エニグマに参加、そして世界へ 1990年には、エニグマがアルバム『サッドネス(永遠の謎)』をリリースし、シングルやアルバムがヨーロッパやアメリカなど世界的に大ヒットしました。(エニグマがマイケル・クレトゥということや、サンドラもコーラスで参加していたことは後に判明。) 1993年のエニグマの2ndアルバム『2〜ザ・クロス・オブ・チェンジ』にもコーラスで参加。このアルバムに収録されている「リターン・トゥ・イノセンス」は世界的に大ヒット。この曲の間奏の英語のセリフもサンドラが担当しました。当初は別の女性がセリフを言う予定だったのですが、何らかの事情でサンドラが担当することになったそうです。 この「リターン・トゥ・イノセンス」は、その歌詞、幻想的なサウンド、民族的なボーカル・・・など、本当に心が洗われるような感動の名曲です。1988年に長野で行われた冬季パラリンピック(身体に障害のある人のオリンピック)で開会式の選手入場曲にも採用されました。一時期、テレビ朝日系「ニュース・ステーション」でもBGMに使用されていたそうです。 ちなみに、サンドラはエニグマのすべてのアルバムにおいて、いくつかの曲のコーラスを担当しています。 |
★出産と音楽活動休止 1995年7月には、サンドラに双子の赤ちゃんが授かりました。名前は二キータとセバスチャン(2人とも男の子)です。 これにより、同年にリリースされたアルバム『FADING SHADES』を最後に、子育てに専念するためサンドラとして、またエニグマのコーラスとしての音楽活動はしばらく休止となりました。 |
★音楽活動の再開 サンドラは出産してから、子育てに専念するために音楽活動からは退いていました。(この間、2枚組みのリミックス・アルバムや、リミックス・マキシ・シングルはリリースしています。) しかし、2001年には子育ても一段落し音楽活動を再開、12月にはオリジナル・レコーディングとしては、6年ぶりになるニュー・マキシ・シングル「FOREVER」をヨーロッパでリリースしました。ドイツのチャート「MEDIA CONTROL」では、最高47位とスマッシュ・ヒットを記録。また、この年の暮れ、ドイツ衛星放送「SAT1」とドイツ・エイズ基金による番組『Stars 2001 - AIDS-Gala』が、ベルリン空港で行われた際には、クリフ・リチャード、ファルコなど、他アーチストらとともに出演しパフォーマンスを見せてくれたそうです。 翌2002年には、なんと8年ぶりのオリジナル・アルバムとなる、『THE WHEEL OF TIME』をヨーロッパでリリースしました。このアルバムは「MEDIA CONTROL」で、最高8位というビッグ・ヒットを記録しました。 |
★サンドラのソロ・デビューに関する疑問 サンドラのシングル「Japan ist weit」のリリースは1984年の4月、アラベスクの最後のアルバム『恋はナイト・アンド・デイ』のリリースは同年の12月となっています。また、日本では最後のシングル「恋はナイト・アンド・デイ」のリリースは翌1985年の1月となっています。これは、サンドラがアラベスクの活動と平行してソロ・シングルをリリースしたのでしょうか?ある見方としては、オリジナル・アルバムと、ベスト・アルバムや企画ものアルバムとのリリース間隔の関係から、ビクターが、それまで既にレコーディングしたものを意識的に少しずつ遅らせてリリースしてきたため、アラベスクが既に解散してしまい、サンドラが(試験的な)ソロ・デビューをしたのにもかかわらず、日本においてアラベスクの新譜がリリースされるという現象が起きたのではないかという意見もあります。1984年ごろになると、アラベスクはドイツ国内でも目立った活動をしていなかったので、どうやら、その年の初めには実質的に、既に解散していたのではないかと思われます。このあたりの事情に詳しい方の情報提供をよろしくお願いします。 あるドイツ人のサンドラ・ファンによると、サンドラはヨーロッパで人気が高くなってからも、インタビューでは、アラベスクに関して「以前、アラベスクという女の子の3人グループにいたことがあった」という程度でしか語ったことはなかったそうです。彼女にとって、アラベスクはアイドル時代の恥ずかしい過去だったのかもしれません。特に、幻のファースト・シングル「Japan ist Weit」については、まったく触れることはなかったそうです。 |
サンドラが抜けた後のミシェーラとジャスミンの二人は、「ROUGE(ルージュ)」という二人組ユニットとして、西ドイツを拠点に活動を始めました。西ドイツのJUPITER RECORDS(あのジンギスカンが所属していたレコード会社)や、大手RCAから、何枚かの7インチや12インチ・シングルをリリースしましたが、大きな話題にはならなかったようです。 また、1987年には、アバを輩出したユーロビジョン・ソング・コンテストのドイツ国内予選に「EINER VON UNS」でエントリーしていましたが成績は奮いませんでした。 1988年には起死回生をはかってか?日本デビューも果たしました。そして、日本での企画シングル「恋はNO TIME」や、アルバム『ROUGE』をFUN HOUSEよりリリースしました。また、翌年には同曲をひっさげて第18回東京音楽祭にも参加し銅賞を受賞しました。しかし、日本でもそれほど話題にならず、それ以降は目立った活動はありませんでした。 |
ROUGEの夢は二人とも「NO.1ヒットを持つこと」(当時)でしたが、叶わぬまま、現在はいったいどうしているのでしょう。もしかしたら、NO.1ヒットの夢を捨てずに、今でもどこかで音楽活動をしているのでしょうか。それとも普通に結婚して家族と暮らし、「お母さんは昔歌手だったの。いろんな国でコンサートをしたり、遠い日本では、とっても人気があったのよ・・・」なんて、子どもに話しているのでしょうか・・・。 |